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 2007.10.11 Thursday
中村清太郎「山岳礼拝」
右から保護函、函、本体・・・
 中村清太郎「山岳礼拝」を読んだ。復刻版日本山岳名著全集の別巻として収録されたものであり、なかなか読み応えがあった。

【紀行】
「白峰山脈の南半」(原題は「冬の白峰山脈彷徨」)「大井川奥山の旅」の2作は「山岳渇仰」で、「黒部川峡谷の話」「雪山と廃道(所ノ沢ごもり)」「春山写生行」は「ある偃松の独白」で読んだので今回はパス。

白峰及び赤石山脈縦横記」明治42年夏の高頭式、小島烏水、高野鷹蔵、三枝威之介との南アルプス登山の記録。日本初のテントを使用。一部を除きほぼ全文を中村が書き、小島が校正、加筆している。追憶編「小島烏水」によれば探検隊隊長格であった小島に最年少の中村が「荒筋を書いてくれ」といわれたようだ。本編は登山史の観点から非常に興味深い記述が盛りだくさんであるが、追憶編ではこの登山行のハプニングや最年少中村の心中も書かれ、こちらも面白い。
 鉄道もない時代、悪沢岳を目指すのに甲府から馬車で鰍沢、ここからは徒歩で櫛形山の麓の池の茶屋を経由してやっと西山温泉となる。さらに転付峠の北を越えてやっと悪沢岳に取り付く。 赤石山系一部憶測図
 地図もなく、稜線のつながりも不明で三角点などの憶測図しかない時代。憶測図ではまだ塩見岳の名称はなく(間ノ岳になっている。白根三山の間ノ岳は別にある)、悪沢岳が主脈上になく東に突き出た山であることをこの登山で初めて発見している。地図のいい加減さに比べて中村のスケッチや絵画の綿密な描画が妙に目立つ。


赤石山頂から(部分)
赤石山頂から(カシミール)

塩見岳の表示はなく、間ノ岳となっている。甲斐駒もきちんとチェック。

 椹島などに水力発電調査のため電力会社の人間が出入りしていることに落胆しているのが楽して登ろうという最近の人たちとは大きく違う。

後立山連峰縦断記」明治43年夏、辻本満丸、三枝威之介との鹿島槍、針ノ木岳の紀行。この途上で、棒小屋乗越で中村はクモマツマキ蝶を捕獲。日本初の高山蝶の発見。ちなみに日本初のピッケル使用者にもなった。ちなみにこれに続き三枝と歩いた薬師岳で二種目の高山蝶ベニヒカゲも発見する。この章は辻本が記述したが、登山中に捕獲した「お宝」クモマツマキ蝶をたびたび確認する中村の様子を揶揄している。で、最後にたどり着いた針ノ木峠の隣の山で辻本が、ここを針ノ木岳という名にしようと山名を決めている。
 この山行の記念写真が「山を愛する写真家たち」などでも紹介されている有名な写真である。


鹿島槍から
鹿島槍から

鹿島槍ヶ岳山頂から

越中アルプス縦断記」明治43年夏、上記の後立山連峰を踏破した中村と三枝はさらに立山方面を目指す。黒部川の平で黒部の主、遠山品衛門がかけたモッコの渡しを使い、五色が原に抜ける。中村はこの場所が相当気に入ったようだ。その後、まだ稜線の続きがわからない薬師岳を経由、頂上で偶然にも田部重治に会い、その後、念願の黒部五郎岳の登頂を果たすが、天候が回復せずエスケープルートとして西鎌尾根から槍ヶ岳へ向かい上高地に下りた。この紀行は中村が執筆している。


北薬師岳の北から
北薬師岳の北から

北薬師岳の北より。

【随想】
表題作「山岳礼拝」「ある偃松の独白」など長短11編を収める。
東京より見ゆる山のこと」:短編であるが、同じ日に東京の別の場所から南アルプスの白い峰を見た中村と木暮理太郎はその晩に協議して悪沢岳と結論付けるなど、後の木暮の「望岳都東京」につながる逸話があり興味深い。
 当時から六郷土手から白根三山が見えたことは有名だったようだ。
日本南アルプスの思い出」。「白峰及び赤石山脈縦横記」の裏話という感じのエッセイ。面白い。
ある偃松の独白」(小説)。同名の表題作もあるが、「山岳礼拝」の裏の見返しにはこの小説に関連する「老いたる偃松」の絵があり、再読した。この偃松は木曽駒のものであろう。
黒部川初遡行の追憶」大正8年夏の木暮理太郎との遡行記。黒部の案内人助七と立山の案内人(宇治長次郎)との確執というか長次郎が黒部という場所を考慮し助七に花を持たせたために準備不足などにより結局目的の後立山への遠征はかなわず室堂に抜けることになる。宇奈月温泉からのトロッコ列車はもちろん、日電の水平歩道(という暢気な名前から想像できない道だが)もない時代、愛本から歩いて黒部に入る。詳細な記述は木暮の「山の憶ひ出」の「黒部川を遡る」にあるのでこちらも読んだ。

【追憶】
 小島烏水、高頭仁兵衛、高野鷹蔵、木暮理太郎、茨木猪之吉、辻本満丸と辻村伊助、加賀正太郎について。ほとんどが追悼文であるが、書き方から察するに一部は未完となった「日本登山史」の原稿の一部のようだ。
 いずれも貴重な交遊録である、それ自体が「日本登山史」と言える。それにしても横浜正金銀行(後の東京銀行、さらに現在の三菱東京UFJ銀行)に勤務していた小島はなんであんなに山に行く時間が取れたのだか、現代のサラリーマンから見るととても不思議。しかも彼はアメリカに2年ほど赴任しているんだけど・・。「日本山嶽志」の高頭は付き人に「ふだんなら次の間か敷居越でしか話ができないのに同じ天幕に入れるとは山は幸せだ」と言わせた本当のお大名だし、加賀正太郎(中村とは小学校、大学で同級)は加賀証券社長でご存知ニッカを創設している。いつもお金がなくて知人宅を渡り歩いた茨木猪之吉を別にすれば、関東大震災で屋敷ごと埋まって遭難死した「スウィス日記」の辻村も含め、みんなお金と時間となによりも気力と体力があったのでしょうね。

 中村と小島は30年近くお隣どおしだったようだ。
 辻本はググってみると登山家としてよりも工学博士としての記事が多かったのが意外。 やっぱり正体不明なのが木暮理太郎さんでしょうか。
* by 多摩の岳夫 * 21:58 * 山と自然の本 * comments(0) * - *
 2017.05.04 Thursday
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